shirai aisa

誰の参考にもなりたくない呪いの話

2021年04月23日

ダンサーと振付家の労働問題について

↑この記事を書いてから2年と9ヶ月。

考えや体調の変化を経て、当時の自分を客観視できるようになってきたので、今の心境をここに書いておく。

(とはいえ以下の文章を書いたのは2020年11月で、それから5ヶ月も下書きのまま眠らせていたんだけど、なんとなく今のタイミングで公開することにした)

 

「ダンサーと振付家の労働問題について」に書いたことが間違っているとは今でも思わないが、

あの時の私はたいそう苦しんでいた。その苦しみとは何だったのか。

3つの呪い

当時(2018年)の私がかかっていた呪いを簡単に分類すると、以下の3つである。

なお、ここでは便宜上「呪い」と呼んでいるが、これらは必ずしも解かなければいけないものではない。

上記3つの項目は捉えようによっては「呪い」ではなく生きるための指針信念になり得るにも関わらず、

たまたま条件が重なり、悪い方に作用して、私にとっての「呪い」になってしまった、ということだ。

 

1. アーティストは特別でなければならないか

私は芸術大学ではなく、一般の大学を卒業した。

周囲は就職活動をする人がほとんどだったので、その中で「就活をしないでダンスを続ける」という進路を選んだのは、「よほどのこと」だと思われた。

ざわつく周囲を納得させるために、何よりも自分が恥をかかないために、

私は、自分の選択が「よほどのこと」であると思い込むようになってしまった。

「よほどのこと」とはつまり、

私にはどうしてもやりたいことがある。

他の様々な選択肢を捨ててでも追求したい夢がある。

といった感じのストーリー、幻想だ。

この架空のストーリーが自分の実情と乖離していたために、苦しむはめになってしまった。

「命を削って、寝食も忘れて、苦しい生活をものともせずに」作品創りに打ち込むアーティストが、ある日突然「発見されて」世に出てくることを待ち望むような風潮が、ダンスに限らずアートにはありがちだ。しかしさすがにもう、そういう時代ではない。作品のために命を削っていては、本当に死んでしまう

ダンサーと振付家の労働問題

ここに書かれているような「アーティスト像」に何よりも縛られていたのは、私自身だった。

アーティストは、ダンサーは、振付家は、

狂っていて、
家の中がめちゃくちゃで、
創作に向かう時間のことが何よりも大好きで、
病んだりパワフルに振舞ったりを繰り返しながら、
朝早くから夜遅くまで芸術のために労力を惜しまない。

そういったステレオタイプが私の中に蓄積された要因は様々だが、

それがただのステレオタイプであると、気づくまでに時間がかかってしまった。

「活動をしなくても別に命に支障はないけれど、まぁなんとなく成り行きでやってま〜す」

というアーティスト・ダンサー・振付家がいても、怒られる所以は無い、それどころか何の不思議も無いのであった。

これが例えば事務仕事や接客業であれば、「仕事が命!極めたい!」という人と「なんとなく続いてるので続けています」という人が両方いて当たり前だと思えるが、アートとかダンスとかそういう分野になると、どうも思考が曇りがちになっていた。

幸い今の私の周りには「好きでやってるんだろ、やるなら血反吐を吐いて命がけでやれ、それが嫌ならやめろ」なんてことを言う友人・知人・親族は1人もいない。それなのに、どういうわけか私自身がそのような人格を内面化してしまっていた。

崇高な志は確かに美しいし、胸を打つかもしれないが、それが無くても別にアートやダンスをやっていて良いはずだ。

ふざけた軽い気持ちで踊る私を、罰する人などどこにもいない。

 

2. 大人は経済的に自立しなければならないか

大人は経済的に自立すべき。

当たり前のように聞こえるだろうが、

私は内心、これを当たり前とは思えていなかった。(今も思っていない)

「働かなければいけない」ということに、心底納得がいっていなかったのだ。

精神を病んでいる人間に対して「生きているだけでいいんだよ」などと言う人がインターネットには数多いるが、

本当に「生きているだけでいい」のなら、どうして働かなければいけないのか。

子どもの屁理屈のような言い分ではあるが、

私はこのことを本気で考えることにした。

(本気で考えたことの一端は、児玉北斗さんのWebサイトに寄稿したこちらの記事を読んでね)

半分は思考実験のような気持ちで、

「本当に生きているだけで良いというのなら、働かない私を生きながらえさせてみろ、世界よ」

という態度でしばらく生きていくことにした。なんとでも言ってくれ。

「生きてるだけで(働かなくても)いい」というのは、万人に適用できる理屈ではない。

文字通り「働かなければ生きていけない人」が多い中で、私は偶然環境に恵まれているだけと言える。(主に家族のおかげである)

 

しかし同様に、「働かなければ生きてはいけない」というのもまた、万人に適用できる理屈ではない。

(「働かないのならば生きるな、死ね」というのも論外だ。)

生きるために働いている人にとって、働かない人間ほど目障りなものもないと思うが、

だからと言って私が生きるのに肩身を狭くする必要はない。

働いたら負けとか、ドロップアウトしたら負けとか、そんな勝負には全く意味が無い。

働く人と働かない人がただ存在するだけだ。

(とはいえ、今の私は「何が何でも働かないぞ!」というわけではなく、経済的自立を無理に目指すことなく、やりたいと思った仕事だけを、日々がつらくならない範囲でやらせてもらっています。ハッピー)

 

3. コンテンポラリーダンスは現代社会の中で産業として成立していなければならないか

働く(というか何らかの方法で十分なお金を稼ぐ)ことに心底納得のいっていない私が、それでも「大人は経済的に自立しなければならない」と強く思い込み、しかしダンス以外の仕事をこなす体力はなく、ダンスだけでは食べていけず、結果、

「なんでダンスだけで食わせてくれないんだ!」という怒りを抱き、やがてダンスを恨むようになってしまった。

これは自分だけの問題ではなく、

「私よりも体力や熱意、実力のある人たちには、せめてダンスに専念させてあげてほしい」という想いもあった。

(身勝手な願望ではあるが、このことに関しては「世界が平和になりますように」と同じような感じで今でも願い続けている。)

ダンスだけで食べていける人が多い方が、豊かな世界だと私は思う。

しかし、だからといって

「産業として成立してないコンテンポラリーダンスは一刻も早く滅んだほうがいい」とまで思っていたのは、ちょっと狭量すぎた。(愛と憎しみは紙一重、とはいえ…)(思い詰めていたんだろうな)

人類の長〜い歴史のなかで、たまたま現代社会の資本主義経済にフィットしていないからといって、営みそのものに価値がないということにはならない。踊りの価値はそんなことでは決まらない。

そのことが私には見えていなかった。

綺麗事ばかり言っていても飯は食えないが、それでもダンスを恨むよりはマシである。

商売として成立していない仕事をいつまでも続けているのは「地に足がついてない」と思われるだろうが、全員が全員、地に足をつけている必要はないだろう。

自分は何に価値を感じるかを(ビジネスとかお金のことを視界から遠ざけた上で)考え直した結果、いまの私は以前よりもダンスや踊ることが結構好きなので、それで良い。

応用不可能な人生

今では幸いなことに、呪いがほとんど解けている。なぜだろうか。

私に限って言うと、「ヒマ最高〜!」と言いながら3ヶ月ぐらい毎日家でダラダラしていたところ、だんだんと思考と身体が溶けていき、固定観念もほぐれて、今に至ったという感じである。

 

加齢とか、ベランダで植物を育て始めたこととか、人と会わなくなったこととか、思い当たる節は色々あるけれど、これらは私オリジナルの処方箋であり、誰の参考にもなるべきではない。

「私の生き方や選択は、他の誰かにも応用可能でなければならない」という謎の思い込みがあった。

要は、ダンサーや振付家を目指す若者にとって参考になるような生き方を選ばなければいけなくて、「実家が助けてくれる」とか「気の合う伴侶に巡り会えた」みたいなラッキー要素を人生に使うのは反則だと思っていた。

しかしそれは、責任転嫁だ。若者への気遣いなんかではない。

自分に割り当てられたラッキー要素は自分のために使うべきだし、

アンラッキー要素(うつ病とか)を印籠にするような素振りも、できれば避けたい。

だからこの文章をインターネット上に泳がせることに意味なんか無いんだけど、3年後の私が「そっか〜」とか言うだろうから、載せておくことにした。