shirai aisa

動物園動画と、アグネス吉井

2020年09月30日

動物園のカピバラ、ビーバー

Twitterで、このような動画を見たことがあるだろうか。

 

私はこういう感じの動画が好きである。

動物園動画の良さ

これらの動画を見ていると、「どうしたの」「何してるの」「なんなの」といった言葉がつい口からこぼれてしまう。

それは、動物の意図をわかりたい、という欲求である。

意図を理解した上で動物の行動を眺めたい、つまり動物の意図を人間の理解の範疇に収めたい、という考え方は、ある種の擬人化だとも言える。

こういう類の動画に「エサだエサだ」「おまえ、早く行けよ」「よいしょ、よいしょ」といったセリフをアテレコするのは無粋であり悪趣味だが、そのような擬人化欲求を完全に無くすことは難しいだろう。人々は動物たちを脳内でキャラクター化しながら、その行動を微笑ましく見る。

 

しかし、私の考える動物園動画の良さは、“擬人化できる” ことではない。

むしろ動物に人格のようなものを与えて擬人化した上で捉えようとすると、途端にこの動画に感じていた良さが失われるように思える。

キャラクターとしてデフォルメされる際には省略されるであろう、余分な動き間合い不可解さ

つまり、擬人化できない部分にこそ、これらの動画(およびカピバラ、ビーバー、アライグマ、他あらゆる動物)の味わい深さがある。

キャラクターとして見立てることをはなから諦めざるを得ないような、動物がそれぞれ身勝手であることの潔さこそが、動物園動画を魅力的なものにしているのではないだろうか。(※)

カピバラたちに「なにしてるの?」と問いかけたとしても、その問いは空振りになる。そのことが、私たちは心のどこかであらかじめわかっている。

動物園動画が人を惹きつける理由のひとつとして、

「何をしているの」「なんなの」と問いかけたくなる
/しかしその問いに答えは決して返ってこないと知っている

そういうものを見たくなる心理が、人間にはあるのかもしれない。

これになりたい

ところで、以下に挙げるのは私とKEKEのダンスユニット「アグネス吉井」がSNSに投稿した作品である。

 

 

伝わるだろうか。

私たちは、カピバラ的な・ビーバー的な・アライグマ的な「良さ」を一つの指標としている。

ここで問題が生じてくる。

 

動物園の動物たちを、私たちは擬人化(人間の尺度に当てはめて解釈)しようとして、諦める。諦めることを強いられる、そのこと自体に良さがある。

しかし、アグネス吉井の場合、そもそも被写体が人間なのだ。

擬人化のしようがない

 

我々がカピバラのようになるには、

(我々の動画をカピバラ動画のように見てもらうには、)

いったいどうしたらいいのだろう。

 

無駄とは

アグネス吉井のダンスでは、できるだけ余分な要素を削ぎ落とすように努めている。

移動なら移動、静止であれば静止、そのためだけに身体を使い、それ以外のことはなるべく考えないようにしている。

しかし一方で、

先ほど動物園動画の魅力として挙げた要素 :

キャラクターとしてデフォルメされる際には省略されると思われる、余分な動き間合い不可解さ

こういった部分をぜひ見て欲しい、とも思っている。

 

無駄を省きつつ、無駄な部分を見て欲しい。

矛盾している。

 

なぜ踊るのか

私たちは残念ながらカピバラになることはできないが、それでも出来る限り「なんなの」と言ってもらえるように踊っていきたい気持ちがある。

ダンス、特にコンテンポラリーダンスは、

動きの意図や根拠を、(通常の)人間の理解や常識の範疇からはみ出たところに持つことができる。それが楽しくてやっている、とも言えなくはない。

これは、私が動物園動画を見たがる理由、そして「これになりたい」と願う理由にも繋がっているような気がする。

(通常の)人間の理解や常識の範疇の外に動きの動機を見出して、「なにしてるの」「なんなの」と言わせたい。

その上で、余計な動きや無駄な間合いに、我々の身体がもつ動物としての良さを感じ取ってほしい。

人間の分際で、贅沢な願望だとは思う。

 

特に結論は出ていないのだが、

「人間が映っている動画をカピバラ動画のように見てもらうには、どうしたらいいか」

という課題は、今後も心のどこかに留めておきたい。

 

※動物園動画の魅力に関して:単純に「見た目の可愛さ」も勿論大きく影響しているはずだが、個人的にカピバラ・ビーバー・アライグマなどは特に、静止画よりも動画の方が魅力的だと感じることに加えて、人間の可愛くなさについては今さら何を言っても仕方のないところがあるので、今回は動画に映した際に表れる性質についてのみ考えることにした。