shirai aisa

天気の踊り(暇と退屈のダンス映像)

2022年02月13日

私は、ダンスの映像を見続けるのが、苦手です。

 

「お前がそれを言うか」という感じではあるが、事実なのだから仕方ない。

Twitter や Instagram でコンテンポラリーダンサーを何人もフォローしていると、タイムラインに日々のダンス動画が流れてくる。

「おっ」と思ってそれを再生し始めるものの、たいがい2~3秒で飽きてしまうのだ。

それでもたまに「なぜか最後まで見てしまう」動画に出会えることがあるので、それだけで充分なのかもしれないが……

せめて自分が作るダンス映像には、少しでも飽きさせない工夫をしたい。(できればラクな方法で。)なんとかならないだろうか。

 

なんで飽きちゃうんだろ

ダンスの映像を飽きずに見続ける方法も、あるにはある。

ダンサーの動きの細部に集中して、動きから動きへ移り変わる瞬間など特に注意深く追うようにして、同調するように意識して努め、自分を「踊りに吸い込まれている状態」に頑張って持っていけば良い。そうすれば、(ダンスの内容が良いものであれば)だいたいは面白く見ることができる気がする。

でもそれって疲れるし、SNSに流れてくる映像ってそうまでして見るものでも無いよな〜、などと思ってしまう。


ここで、映像ではなく生のダンスを見る場合はどうなのかを考えてみよう。

果たして生のダンスは飽きないのかというと、普通に飽きるし、

「踊りに吸い込まれている状態」が必ず訪れるのかというと、そうとも限らない。

 

実は観客席に座っている時の私は、多くの時間をいわば「暇つぶし」に費やしている。

衣装や照明をつぶさに観察したり、舞台の機構を眺めたり、周りの観客の様子を気にしたり、全然関係の無いことを考えたり、うっかり眠りそうになったり。

観客席では、スマホをいじるわけにもいかないし。

そうやって暇をつぶしていると、いつの間にか「踊りに吸い込まれている」ことがある。

だけどそれは永遠に続くわけでもなく、また気が逸れてしまったりして、意識が行き来する。
(※)

 

生の鑑賞体験のことを、私は概ねそういう感じだったと記憶している。

暇をつぶせない

要はTwitterやInstagramでダンス映像を見ている時って、「暇をつぶせない」のではなかろうか。

だから飽きてしまう。
というか、

映像の再生をやめてタイムラインの巡回に戻りさえすれば、わざわざダンスから目を逸らすよりもずっと簡単に「暇つぶし」に移行できるので、つい指がそのように動いてしまう。

映像を見続けながら暇をつぶすことは難しく、
そして離脱があまりにも簡単であるために

「見続けることが難しい」と感じているのではないか、私は。

歌詞つきミュージックビデオなら暇がつぶせる

ならば、映像の中に、ダンスだけではなく

ダンスから目を逸らす先として別の要素を置いておくのはどうだろう。

たとえば、歌詞付きMVにおける歌詞のテキストのように。

(↑ 歌詞だけではなく色々と工夫がされている例)


それで色々と考えた末に、既存曲の歌詞を使うには著作権の問題があるし、「天気予報のテキストなら馴染みもあって良いんじゃないか」と思い至ったのだった。


天気予報のダンス

ここからようやく、天気予報のダンスの話です。

去年の8月くらいから、「天気予報です」という本文と共に、

外で踊ったダンス映像に翌日の天気予報のテキスト(どこの天気なのかは言ってない)を合成したものを、Twitter上で気まぐれに投稿している。

意図があって、今のところハッシュタグやモーメントにまとめることはしていないが、【from:micoaisa 天気予報】のTweet検索 で一覧できる。

これは、ここまで述べてきたように

ダンス映像の中で視線を逸らす先を作る(暇つぶしをしてもらう)、

そのための実験として開始したものである。

 

しかし、それ以外にもいくつかやっていて面白いと感じたポイントがあるので、せっかくだから書いておく。

踊りを分節するテロップの効果

そもそも字幕やテロップって、それ自体がかなり面白い効果を持っている。

例えばデタラメに動く人間の映像に「私は」「お腹が」「空いた」とテロップを付けたとしたら、

動きの序盤が「私は」、中盤が「お腹が」、終盤は「空いた」を表しているように感じられるかもしれない。

それだけではなく、私たちは「本当は動きとテキストが関係ないってわかっているけど」などと思いながらも、デタラメな動きとテキストを結びつける遊びを、頭の中で楽しむことができる。

テロップには、ひとつながりの時間を区切り、そこに(やんわりとした結びつき方で)意味を与える効果があるようだ。

 (↑ 嬉しかった感想)

 

天気の話をしよう

我が家では、毎日のように天気の話をする。

「昨日より寒いね」とか、「よく晴れたね」とか。

一般的には天気の話なんて話題に困った時の最終手段で、雑談下手な人がする退屈な話の代名詞のように扱われているが、

そんな風にクサすのはやめて、「天気の話をしようぜ」と全員に言いたい。

天気ほど誰もが大きく影響を受けていて、ものすごく身近で、絶えず変化していて、人それぞれが豊かなニュアンスを持つ話題って、他にないと思う。

伊藤亜紗さんの連載「天気のしらせ」、面白いのでオススメです。

脱・脱マンネリ

天気予報のダンスは、即興でやっている。

毎回たいした準備もせずに、河原に着いたら翌日の天気予報をスマホでちらっと確認してから、いきなり踊り始める。

そんな感じなので、8回しかやっていないにも関わらず動きのボキャブラリーはかなりマンネリ化しており、

「この動き、この前もやっていたな」というのが頻発している。

それを、良しとする。

だいたい、「アートたるもの/コンテンポラリーダンスたるもの、常に新しいことをやらなきゃいけない」みたいに思い込むのは、資本主義や新自由主義に迎合しすぎた考え方であって(これはダンス井戸端会議で他の人が言っていたことの受け売りです)(「新しいものを生み出す必要がある」と考えるのは良いとしても、それが何のためなのかってことだと思う)、

別に同じ動きを何度やったって、悪いことなど何も無い。

自分さえ飽きなければ。

 

幸い、私のダンスそのものが変わりばえしなくとも、

気温が違えば服装も違うし、空模様も、天気予報のテキストも

何もかもが回を追うごとに全く違っているので、

映像トータルで見れば、何の問題も無い。

この辺りの反進歩主義というか、マンネリ万歳、周囲の環境の変化を当てにするような考え方は、アグネス吉井の活動にも通底している。

 

(本編はこれで終わりですが、暇つぶしの話がもう少し続きます。)


※ダンスを鑑賞している時の退屈と暇つぶしについて。

勿論、暇つぶしも含めて鑑賞体験であり、暇つぶし自体の質も観客にとっては重要で、それらは全て作品に懸かっている。

暇つぶしこそが、鑑賞体験のメインと言っても過言では無い。(どうだろう、過言かも)

この暇つぶしは、「気晴らし」と言い換えることができる。

 

國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補新版』(太田出版, 2015)の中では、ハイデッガーの退屈論を取り上げて、パーティーのように退屈と気晴らしとが絡み合った「退屈の第二形式」こそが人間らしい生である、と述べられている。(p.319など)

パーティーと同じく、ダンスの舞台を観に行くこともそれ自体が気晴らしである。

ダンスを観ながらまた退屈して、観客席にいながらあれこれ気晴らしをする。

この気晴らしの状態は安定しており、その中にいる人は正気である。

しかし、そんな気晴らしの中で時たま、「踊りに吸い込まれる」瞬間がやってくる。

この時の私は〈とりさらわれ〉ており、安定的で退屈な人間の生を外れて、動物的な生を生きている。

そうしてしばらくするとまた、人間の生に戻ってくる。

 

ダンスを観ながら退屈しているような状態を、踊りに吸い込まれるための足場のようなものだと仮定すると、やはりダンス映像の中にも「気晴らし」のための装置があった方が親切なのではないか。

 

ダンスを鑑賞している最中の退屈の度合いや気晴らしの仕方は、当然ながら人それぞれである。

また、踊りへの吸い込まれ方も人によって違っていて、そもそも「吸い込まれる」という表現が当てはまるとは限らないし、一概には言えないが、

少なくともダンスと一緒に何かしらの「退屈しのぎ」を用意しておくことは、ダンスを主とした何か(映像など)を人に提供する上で、とても重要なことのように思われる。