shirai aisa

ダンス学はどこにある

2018年03月11日

芸術を体系的に学ぶとは、どういうことか

たとえば大学などで音楽を学んでいく場合、楽器の演奏技術の他に、「楽典」と言われるような理論がある。
特に、音楽を作ること=作曲を学ぶ場合は、理論を重点的に勉強することになる。

音楽の主だった理論として「和声法」や「対位法」などが挙げられるが、これは、
「音楽の作り方」であると同時に、「音楽を人間はどのように聴くか」に関する理論でもある。

たとえば、和音が「1→4→5→1」という順序で進行すると、
人間の耳には「安定→やや緊張→緊張→安定」という聴こえ方をしますよ〜
というように。

では、造形芸術、主に絵画を学ぶ場合はどうか。
「デッサン」「遠近法」「色彩学」を学ぶことは、すなわち
人間の目は対象をどのように見るか」を学ぶことであると言える。
蜻蛉や魚の目ではなく、人間の目で見て美しい絵画を描くためには、
人間の目の「見え方」を学び、それに基づいた創作をする必要がある。

 

「人間がある芸術を受容する、そのやり方」を学ぶことが、その芸術の基礎になる
と仮定してみる。

では、ダンスはどうか。

ダンスの基礎を学ぶとは、どういうことか

よく言われるように、クラシックバレエのレッスンを受けることが 全てのダンスの基礎だろうか。

ある体の動かし方を学ぶことは、あくまで「プレイヤー」の学問である。

ダンスにおいて「クラシックバレエ」を学ぶことは、
音楽でいえば「バイオリンの奏法」を学ぶことであり、
絵画でいえば「油彩の技法」を学ぶことである。

「人間がある芸術を受容する、そのやり方」を学ぶことが、その芸術の基礎となる
ならば、クラシックバレエは、全てのダンスの基礎たりえない。

同様に、ブレイクダンスやアイリッシュダンスや日本舞踊などのいかなるダンスも、「全て」のダンスの基礎にはなりえない。

「人間がダンスを受容する」ことについての学問が、圧倒的に足りていないのではないだろうか。

人間はいかにしてダンスを知覚し、感じ取るのか。

その仕組みを理論的に暴ききることは、可能なのだろうか?

「振り付け」に関する学問は、既に存在する。
また、脳科学や認知心理学、哲学、美学、文化人類学など、知覚・感覚されるダンスに関する言及はあちこちでされているし、アクセスポイントは無数にある。

ダンスに触れる経験を語る道筋は、いくらでもある。

しかし、そのどれもが、「周辺からのアクセス」になってしまうような気がしてしてならない。

あれこれ例え話を並べることはできても、ダンス体験をズバリ言い表すことはできない。

それはつまり、「ダンスとは何であるのか」を、結局は言い切ることができないということである。

ダンスとは何か、言い切らないままどこまでいけるか

「ダンス」にまつわるアフタートークや講義の場が、「ダンスとは何か」を定義しないままの状態で進行していく様子を、私は何度か目撃している。

ダンサーや振付家自身においても、「ダンスとは何か」を問うこと自体がライフワークだ、という人が多いように思う。ほとんどの場合がそうである、と言ってもいい。「ダンスとは何か」の答えを、どんな偉大な師匠も教えてはくれない。

コンテンポラリーダンスの作品を作り続けるということは、振付者の考える「ダンスとは何か」を提示し、それを更新し続けることでもある。

「ダンスとは何か」、
その答えは当然、個人によって、また時と場合によって異なる。

このことは、詩に似ているような気がする。

そしておそらく、哲学にも似ている。

「詩」とは何か、「哲学」とは何か、答えが個人によって・時代背景によって異なってくるのは当然のような気がする。

しかし、だからといって、「詩」と「哲学」に関する学問が成り立たないわけではない。

ダンスを学問するにあたって、音楽や美術といった他の芸術ジャンルではなく、「詩」と「哲学」のやり方を参照していくのは有効かもしれない、とぼんやり考えている。