shirai aisa

意識の遅延について / 「ダンス警察」を聞いて考えたこと

2018年04月29日

noteより転載

WWFes2018 (於 北千住BUoY)の中で、福留麻里さんのキュレーション・進行で行われたレクチャーイベント「ダンス警察 桜井圭介の これがダンスだ!」を聴講して、私なりに考えたことのまとめです。

この動画の2:24あたり、年老いたジョン・トラボルタの力の抜けた「良いダンス」に対して、ユマ・サーマンのダンスは「これはこれで好き」と言われつつも、どちらかというと悪い例のように取り上げられた。このユマ・サーマンのダンスに対する感想として福留麻里さんが述べた「意識がいっぱいある」という一言、この発言こそが的を射ている、重要な発言だったと私は考える。

意識は遅延を生じさせる

身体の動きに意識が介入すると、遅延が生じる。

無意識のはたらきに対して、意識は遥かに遅れをとる。そのことを、音楽家やタップダンサーはよく知っている。ジョン・トラボルタのように年老いたダンサーも然り。脱力が重要とされるのは、このためである。

音楽を正確に捉え、音楽と同調するためには、できるだけ身体の動かしている部分から意識を排除する必要がある。スティックの上げ下げに関わる手の動きをその都度意識してしまうと、ドラムを正確に叩くことはできない。身体からできるだけ意識を削ぎ落とすことで、人の身体はよりよく「音楽にノる」ことができる。

音楽を演奏する場合に、この「意識による遅延」をわざと利用する例もあるだろう。(このアニタ・オデイの首の動きはたぶんそういうことだと思う)

また、ユマ・サーマンのダンスの場合はその遅延がチャーミングな鈍臭さとして魅力にもなっていると思うので、ダンスにおいても、必ずしも「無意識の身体=善」ではない。ただ、おそらく桜井さんの言う「グルーヴ」や「音楽に対してノッている身体」を重視する場合、意識を身体から逸らす技術は必須だろう。言い方を変えると、意識による統制下から身体を逸脱させるということ。そして、舞踏やコンテンポラリーダンスには、そのための技術がかなり豊富にストックされていると思う。(イメージの利用、踊りこなすのが困難な振付、身体の一部を拘束したり負荷をかける、など)

昨日の講義では「物のダンス」や「線(二次元アニメーション)のダンス」も取り上げられていた。物もアニメも意識をもたないので、遅延のしようがない。その意味では、人間よりも「良いダンス」を踊れる可能性を彼らはもっている。

年老いたダンサー(ジョン・トラボルタ、大野一雄、マース・カニンガム)が良いと感じるのも、おそらく動きのなかに不随意の動きが多く含まれるからで、ただその「不随意の動き」の豊かさは、若いころのダンス経験によるものだと思う。身体というものは、やったことない動きはできないことが多いので。