勝ち誇った身体と負け腐った身体
2017年11月2日
ポストモダンダンスについて
「ポストモダンダンス」というのは、1960年代のアメリカで発祥したコンセプトである。(ダンスのジャンルというより、コンセプトだと捉えるのが良いような気がしている。)その名の通り、モダンダンスのあとに生まれたもので、その特徴は以下のようなもの。
- スペクタクルを排する
- 扇情的な感動や共感を求めない
- 意味や指向性を排する
- 日常の身体を観察し、そこからヒントを得る
多くの場合、大がかりな舞台装置のない素の空間で、飾りの少ない衣装で、淡々と踊られる。(例外はあるし上記の特徴は私が独自にまとめたものなので、あてはまらないことも多いけど、面倒だし全てを包括した定義は不可能なので割愛)
代表される振付家としてよく挙げられるのは、イヴォンヌ・レイナーと、トリシャ・ブラウン。どちらもアメリカ人の女性で、トリシャ・ブラウンは2016年に亡くなったが、イヴォンヌ・レイナーはご存命で、いまもNYで踊っていらっしゃる。
記事タイトルにある「勝ち誇った身体」という言葉は、2017年10月29日にBuoyで行われたコンタクトゴンゾのパフォーマンスのアフタートークの場で、外山紀久子さんの口からこぼれた言葉だ。
外山さんは「帰宅しない放蕩娘」という本の著者であり、この本には(様々な混乱のもとになっている)「モダニズム」「モダンダンス」「ポストモダニズム」「ポストモダンダンス」について、詳細に書かれている。
今回の公演の首謀者である越智雄磨さんが、コンタクトゴンゾのパフォーマンスと「ポストモダンダンス」に接点を見出し、トークの場に外山さんを呼んだという経緯だそうだ。
外山さんがトークでおっしゃったのは、
「(多くのダンサーは)舞台の上に立って、“勝ち誇った身体”を見せたい」
「(それに対して、コンタクトゴンゾのパフォーマンスは)それ以外の部分を排除しない」
というような内容のことだった。
この言葉を聞いて私が泣きそうになったのは、「勝ち誇った身体」へのコンプレックス、そして「負け腐った身体」をもっと愛したい、という気持ちを、ここ何年も心の中に育てているからだ。
勝ち誇った身体とは、何か
私の考えるポストモダンダンスの特徴の一つで、上記に挙げなかった項目がある。それは
- ダンスっぽい身体の動きを避ける
というもので、この「ダンスっぽい身体」というのがまさに勝ち誇った身体とも言い換えられる。
ダンスっぽい身体というのは、
- クルクル回る
- 足を高く上げる
- かっこよくジャンプする
とかいうような「大技」だけでなく
- 手を美しく差し出す
- しなやかな足取りで歩く
- 柔らかく螺旋のように崩れ落ちる
みたいな、「ダンサーの身体に備わったクセ」のレベルまで含まれる。
そう、よく訓練されたダンサーは、いつだって美しく崩れ落ちる。
それを、「やらない」
もしくは「できない状態まで振付によって追い込む」
のが、ポストモダンダンスだと私は思っている。
この「できない状態まで振付によって追い込む」というのがミソで
コンタクトゴンゾのパフォーマンスは、「重い」「痛い」「怖い」などの理由、
そして物理的な拘束、タスクに課された厳しいルールを守ることによって、
「ダンスっぽくカッコつける」ということが不可能なようにできている。
(加えて、素人であることがパフォーマーの条件なので、ダンサーっぽくなさは厳重に担保されている)
私が「負け腐った身体をもっと愛したい」のは、
自分が勝ち誇った身体を獲得できなかったという怨恨に加えて、
取り繕うことのできない、目の前のタスクをこなすことにまっすぐ集中した素直な身体が美しいと感じるからであって
たとえば猫のように、必要最低限な動き、飾り立てず、でも時々エラーを起こす身体のありようを、
もっと楽しみたいし、楽しめる人が増えたらいい、と常々思っている。
なので、私の中で、ポストモダンダンスは決して過去のものではなく
まだ消費されきっておらず、充分に掘り下げようのあるコンセプトなのである。